私の祖父が遺した、牛島満・牧野四郎両将軍の貴重な書。

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 もうかなり前の話で恐縮だが、今年4月、鹿児島県大隅半島「鹿屋」の地で行われた「艦これ」のオンリーイベントに参加したついでに、鹿児島県内の戦跡を訪問したり、親族の墓参に行ったりしてきた。

 その際、以前から解決しようと思っていた疑問があり、鹿児島市内にある「鹿児島縣護国神社」に立ち寄った。
 本ブログにも何度か書いたことがあるので、読者の皆さんには「くどい」と言われるかもしれないが、私の祖父は士官学校出の陸軍軍人。その祖父が生前、護国神社に寄贈した「書」があるというのである。

その「書」とは、旧陸軍の牛島満、牧野四郎両将軍のものだという。

 私の祖父、臼井一雄は、昭和16年8月、異動により陸軍士官学校の教官として赴任。陸士56期生徒隊の中隊長となった。このとき、沖縄戦の指揮を執り戦死する牛島満大将、後にフィリピンで戦死する牧野四郎中将と同じ職場になった。
 祖父の手記『わが八十年史』より引用する。

「当時における校長は鹿児島出身の牛島満中将で、出身地は鹿児島市加治屋町で、私が小さいときから長い間住んでいた上之園町と、甲突川を境界にした北隣である。かかる地縁によりしばしば演習の合間には、よく閣下の方から郷里鹿児島の思い出話をされて、二人でよく打ち興じたものである。ちょうどそのころ、当時の予科士官学校校長は同じ鹿児島出身の牧野四郎中将であって、鹿児島県出身の将軍が、本科と予科の校長をしておられた時期があったのである」

 祖父は、牧野、牛島両将軍ともに鹿児島出身だったという縁から、両将軍に書をいただいたというのである。そのくだりは以下の通り。

「(略)牧野中将が師団長としてフィリピンのレイテ島に赴任される送別会の折、戦況上、式はこれが最後になるやも計られずと判断したので、東京三省社における牧野中将送別会の席上、急ぎ紙を準備して、牛島、牧野両将軍に揮毫をお願いしたのである。この時牧野閣下は養正と書き、牛島閣下は至誠と書かれたのである。果たせるかな戦局は我に利あらず、両将軍共に戦没されたのである。私はこの貴重な絶筆を私するに忍びず、鹿児島縣護国神社に寄贈し、永く両将軍の形見として残さんとした次第である」

 この手記を元に、護国神社を訪問したところ、境内にある戦没者の遺品などを納めた「威徳顕彰館」(※社務所でお願いすると鍵を開けて見せてくれる)には展示されていなかった。「これはどこかにしまってあるのかな」と、同行者と話していたところ、たまたま同行者が別件で禰宜さんと話をしている際に「その書ならここにあります」と教えてくれたのである。

 なんと、参集殿(兼社務所)の待合室のような場所に、額装されて飾られていたのだ。その後、宮司さんともお話することができ、「これは展示物の中でも別格で貴重なのでここにあるのです。由緒がわかって良かった」とのお言葉もいただいた。私個人としても、祖父の良い供養になったかと思う。

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※撮影の許可はいただいております

 というわけで皆さん、鹿児島においでの際は、ぜひ護国神社にお立ち寄りを。

牛島満…陸士20期。昭和17年4月、陸軍士官学校校長。昭和19年8月、第32軍司令官として沖縄へ。ご存じの通り沖縄での激戦の末、昭和20年6月、自決。
○牧野四郎…陸士26期。昭和16年5月から陸軍予科士官学校教授部長、17年12月より予科士官学校長。昭和19年3月、第16師団長としてレイテへ。20年8月、自決。

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